『養生訓』より「常あり、変あり」

養生訓(講談社学術文庫)

最近、『養生訓』(貝原益軒/講談社学術文庫)を引っ張り出して読み直しています。

以前は現代語訳で読んだのですが、今回は原文で読んでいます。原文のほうが格調高く、ストンと腑に落ちます。江戸期の文章とはいえ、それほど難しくはありません。

今回はその中から、面白いと思った節をひとつご紹介します。

<巻第一・27>
或人うたがひて曰、養生をこのむ人は、ひとゑにわが身をおもんじて、命をたもつを専らにす。されども君子は義をおもしとす。故に義にあたりては、身をすて命をおしまず、危きを見ては命をさづけ、難にのぞんでは節に死す。もしわが身をひとへにおもんじて、少なる髮膚(かみはだえ)まで、そこなひやぶらざらんとせば、大節にのぞんで命をおしみ、義をうしなふべしと云。

ある人は、こんなふうに言う。養生好きな人は、自分の身を重んじて命を保つことばかり考える。しかし君子は義を大切にする。難局にあたって命を惜しまずにささげ、死ぬことだってある。髪の毛すら失うまいと自分の身のことばかり気にかけていたら、いざというときに命を惜しんで、義に生きることはできないのではないか、と。

だいたいそんな意味ですね。なるほどな意見です。

わたしたちの生活においては、命を捨てるほどの難事にはそうそう遭遇するものではありませんが、たとえば次のように置き換えることができるかもしれません。

健康、健康って言って、酒も飲まなきゃ、うまいものも食わない、そんなのつまらんでしょう。人生、楽しまなきゃ!

こう考える人は、けっこういるのでは?

益軒先生の答えを見てみましょう。

答て曰、およその事、常あり、変あり。常に居ては常を行なひ、変にのぞみては変を行なふ。其時にあたりて義にしたがふべし。無事の時、身をおもんじて命をたもつは、常に居るの道なり。大節にのぞんで、命をすてゝかへり見ざるは、変におるの義なり。常におるの道と、変に居るの義と、同じからざる事をわきまへば、此うたがひなかるべし。

たいていの事には、常事と変事がある。いつもと変わりないときにはいつものことを行い、変事においてはいつもとは違うことを行う。その時々に義があるのであって、それに従うべきだ。平常時に身を大切にするのは、平常時の道。いざという時に命を捨てるのは、いざという時の義。それらが同じではないことをわきまえるなら、そういう疑念も持たないはずだ。

見事な返事ですね。平常時と異常時とで「義」は異なると言っています。

さらに、こう続けます。

君子の道は時宜にかなひ、事変に随(したが)ふをよしとす。たとへば、夏はかたびらを着、冬はかさねぎするが如し。一時をつねとして、一偏にかゝはるべからず。殊に常の時、身を養ひて、堅固にたもたずんば、大節にのぞんでつよく、戦ひをはげみて命をすつる事、身よはくしては成がたかるべし。故に常の時よく気を養なはゞ、変にのぞんで勇あるべし。

君子の道は時宜にかなって、事変に従うことだ。夏は薄い物を着、冬は重ね着するように。一時の在り方だけに偏ってはならない。平常の時に身を大切にして強くしていなければ、いざというときに命を捨ててのぞむことなどできない。だからこそ、平常よく養っておけば、いざというときに勇ましい行動ができるのだ。

だいぶ次元は違いますが先ほどの飲食にからめて言うと、「いまを楽しめ」とばかりに暴飲暴食していると、体を壊し、健康を損なって、結局はおいしく食べることすらできなくなるよ、となるでしょうか。

いつもいつもご馳走では、ご馳走も食べられなくなる。

あ、料理研究家・土井善晴先生の言う「ハレの日」と「ケの日」の話に近づいてきましたね。「ハレの日」(特別な日、祭り事)にはハレの日の料理があり、「ケの日」(日常)にはケの日の料理がある。

これもまた、「 君子の道は時宜にかなひ、事変に随ふをよしとす」につながります。

何げない日常において身を重んじるからこそ、いざの時にしっかりと動くことができる、益軒先生の言葉を肝に銘じておきたいと思います。

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